それなりの年齢になったからでしょうか?
散歩や散走中に出逢う植物たちの、四季それぞれの姿が愛おしく感じられるようになってきました。
芽拭き、開花、新緑、深緑、紅葉、落葉、そして裸木、どの姿もそれぞれに美しいと感じるようになりました。
そうなってから、イノチはいつだって歓んでいるんだよな、って感じるんですよね。発芽とか開花とかの時だけ、私たちは楽しませてもらっているけれど、植物たちは、淡々と脈々とイノチをつなぐ営みを続けている、そのこと自体が歓びなのではないかと。
そういう感じ方をするようになってから、一番惹かれる姿が変わりました。
前は断トツ芽吹きと開花の時だったのですが、今は、それと同じくらい、熟しきった種が零れ落ちる直前の姿と、種を落とした後、空き家になった種の実家(?)の姿に惹かれます。
「やり切った透明感」がそこにあるのです。
今、初夏から晩秋にかけて花を楽しませてくれていた我が家の朝顔が枯れ、種が落ちる季節になりました。
前は、花が終わったら、さっさとネットから蔓を引きはがして片づけていました。でも、今は、それができなくなっています。
一日花の朝顔。咲くと決めた日に、どんな天気でも潔く咲いて散る。そこから40日くらいかけて種を育てていくのです。なので、それを待つことにしました。
今、この記事を書くにあたって、朝顔の種のことを調べてみました。そしたら、なんと、あのふっくらと黒々とした種の中に、すでに双葉と軸の赤ちゃんが出来上がっていることを知りました。
見事なイノチのバトンのシステム。もう、植物には脱帽です。
まだまだ、目に見える成果に一喜一憂してしまう自分が恥ずかしくなります。
植物のように淡々と生きたいな~って思うこの頃です。