らせん流タオRUNNING倶楽部 らせん流®RUNとは | らせん流®タオRUNNING倶楽部

日常の一歩一歩の気持ちよさ自己ベストを目指す

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らせん流®タオRNNING倶楽部

ランニングセラピスト®小松美冬主宰 東京・国分寺を中心に教室を開催中

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日常の一歩、一歩をより気持ちのよいものにすることで

もって生まれたからだの可能性を存分に楽しみ

からだの奥から生まれる

地に足がついた

自己肯定感とともに

日々を送りたい

人生プレイヤーの皆さまへ




からだから、自然の理に反した動きでため込んだ歪みやコリを除き

本来の在り方に近づいて立ってみると、からだがゆらりゆらりと揺れて

背骨に沿って、らせん状の流れが下から上へと

立ち上がってくるのを感じます。

それに身をゆだねていくと

丸ごと全体の自分がどこからともなく

ゆるやかに転がるように前に運ばれていきます。

その動きは、からだの内側でも、外側とも軋轢が少なく

とてもなめらかで軽やかです。

これが〈らせん流RUN〉です。


これを続けていくと

なぜか、さらに骨の並びが調い、筋肉はほぐれ、気と血の流れがよくなり

からだが根本から調ってきて、その気持ちよさに笑顔がこぼれます。


この動きをゆっくりすると、いわゆる歩きになり

速くすると、いわゆる走りになります。


そこへナビゲートするのが〈らせん流RUNワークショップ〉です。


そんな楽しい世界で

からだに秘められた力を全開にし、ご自分をもっと楽しみませんか?






らせん流®RUNを続けることで、主に次のことが期待できます。


・楽に気持ちよく、努力感なしに歩けるようになります。

・気持ちいいから歩きたい、走りたい体になります。

・骨格の歪みが改善され、コリがほぐれ、いわゆる姿勢がよくなります。

・身心ともに、地に足がついて、身心の芯が目覚めてきます。

・自分の体を自分で守る習慣がつきます。

・自分の体に秘められた可能性のすばらしさに気づき、

自分が好きになってきます。



こんな方におすすめです。


・タイム・順位・距離・歩数・フォームに縛られて動くのを好まない方

・足腰に不安があるにも関わらず、動きを見直すことなく歩き、走り続けている方

・遅い、苦しいという理由で走ることを敬遠してきたけれど、実は走ってみたい方。

・歩きや走りを調えることを通して、人間の体の可能性のすばらしさに気づきたい方

・歩くこと、走ることを生涯続けたいから、体に無理のない動きを探りたい方。



このような方にはおすすめできません


・自分の体の感覚より、タイムや距離、歩数を追いかけたい方

・これまでの動きや教えに固執して、変化を好まない方

・自分で自分を調えることが面倒で、他人任せにしたい方




〈らせん流RUN〉の真のゴールは?

〈らせん流RUN〉が真に目指しているのは
速さではありません。
距離でもありません。
レースや練習で、目標をクリアする達成感でもありません。
汗をかいたあとの、ビールのおいしさでもありません。
もちろん、レースで人に勝つことでもありません。

それらを求めることは、とてもステキなことかもしれません。

でも、〈らせん流RUN〉は、そこにとどまりません。

〈らせん流RUN〉が目指すのは
まずは、からだもこころも楽しくなる歩きであり、走りです。

そして、その先に目指す、真のゴールは

やさしくいえば
子どものころの無邪気な自分に還ること。

ちょっとカッコつけていえば…
自然回帰であり
自分回帰です。

天と地の間で、歩く、走る…

この日常の基本の動きを、自分のからだの構造に任せて行うことで
そもそも自然界の一部として生まれ、天地につながっている存在の自分を感じ
それに身をゆだねる安らかさ、楽しさを味わい、いのちの弾みを感じること。

それをすることで、天と地から応援を受けて、自分がさらに調い、自然としなかやにつながっていく。

これが、〈らせん流RUN〉の真のゴールです。

***

〈らせん流RUN〉について、さらに深く知りたい方、お読みいただければ幸いです。

最後に 〈らせん流RUN〉に込められている思い、潜んでいる可能性、〈らせん流タオRUNNING倶楽部〉を立ち上げた思いついて、 ランニングライターの小松美冬が、ランニングセラピストの小松美冬にインタビューしてみました。



“らせん”も“流れ”も“RUN”も自然の姿の特徴なのです

――まず、〈らせん流RUN〉、この意味ありげなネーミングについて、もう少し詳しく教えてください。

ありがとうございます。そこを聞いてくださると、うれしいです。この名前は、わたしの体験から生まれたものです。

〈らせん流RUNとは〉のところで、少し触れましたが、わたしがこの動きを体験しているとき、地から天へ、天から地へ、らせん状のなにか、エネルギーとも力ともいえるものが流れるように立ち上がり、舞い降りくるのを感じていることから、まず「らせん流」が生まれました。


――“流”は、小笠原流とか、千家流などの、流派を表す“流”ではないんですね?

はい。自然界は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で、いつも、どこでも流れている、とどまらない、そんな意味の“流”です。


―――では、RUNは?

その時の前進の様子が、自分の内側もなめらか、外界との関係性もなめらかで途切れない、まさに、英語のRUNのコアの意味に近かったんです。


―――英語のRUNのコアの意味とは?

「ある方向に連続して(なめらかに、すばやく)動く」です。


――RUN=走る、と思っていました…

わたしも、ずっとそう思ってきていました。

ところが、らせんの流れに任せて前進しているときの様子を表す言葉を探していたとき、ネットで「ベネッセの『Eゲイト英和辞典』の帯には、run=『走る』ではない」とある。runのコアの意味は、“ある方向に連続して(なめらかに、すばやく)動く”である。」という記事を見つけて、思わず、手を打ったんです。「あの感じは、これに似ている!」と。


―――というと?

RUNのコアの意味の中で、わたしが注目したのは、「連続して」と「なめらかに」の部分です。

自然界の動きは、すべて切れ目なくつながっています。

わたしたちも自然界の一部ですから、その動きも、本来そうあるはずで、らせんの流れに身を任せているときの様子は、イチ、ニ、イチ、ニのリズムで動く西洋的な歩きや走りに比べると、動きが流れるようにスムーズにつながっており、まさにRUNのコアの意味に近い感覚です。

スポーツ科学では、両足が同時に宙に浮く時があるのが“走り”で、どちらかの足がついているのが“歩き”と定義されていますが、
〈らせん流RUN〉の動きを速回しすれば、ふっと両足が同時に宙に浮いて、“走り”になります。ゆっくり回せば、片足が地面についている“歩き”になります。

ただ、その変化も連続的で、境目がはっきりしていません。


―――なるほど。だから、RUNを使ったんですね。でも、RUNというと、 走る人向けなのかなと、誤解も生みそうですね。

そこは、悩みました。悩んだ末、“歩き”や“走り”という言葉を使うと、どうしても、これまでの“歩き”や“走り”のプログラムが出てきやすい。それを極力避けるためにも、RUNという言葉を使ってみました。


―――RUNが、自然界の動きの特徴を表したものであることはわかりましたが、らせんは、どうなのでしょうか?

わたしが、からだにらせんの流れを感じたあと、「ん・・・、なんだろ、このらせん状の感覚は?」と思ったとき、すぐに思いついたのが、DNAが2重らせん構造だということでした。

そして、最近、惑星の運行もらせん状であることがわかってきたという話も思い出しました。

「小さくはDNA、大きくは惑星の運行がらせん状なら、その間にある自然界もらせんに支配されているかも?」と自分の内側と外側を調べてみたら、らせんは、自然界の姿の大きな特徴のひとつだったのです。


―――たとえば?

芽吹きのとき、枯葉が舞い落ちるとき、葉はらせん状に動きます。 水蒸気、台風や竜巻はらせん状に立ち上がります。


―――確かに…。では、わたしたちの内側は?

DNAが2重らせん構造のことはよく知られていますが、精子の動きもらせん状、筋繊維の様子もらせん状、筋肉も骨格もゆるやかにらせん状に巻いています。

さらに、大動脈もらせん状に流れているという論文も見つけました。そうでなければ、曲がりくねった血管の中をなめらかに血液が流れるのは難しいはずだと。

それと、わたしたちは、産道を3回廻りながら生まれてくるそうですし、ハイハイの動きも、進行方向に対してらせん状に動きます。


―――ほんと、らせんだらけですね!

だから、からだが動きたいように動くと、らせん状の流れが生まれ、それに従っていくと、力を入れようとしなくても、必要なところに必要なだけ力が通り、自分の内側に引っかかりがなくなってくる。
さらに、外界もらせん状になっているから、そことも溶け合うようになめらかに進むのでは、と、考えています。

これは、あくまで経験から生まれた仮説の段階です。
今後、より多くの方に試していただきながら、多方面の専門家のご意見をお伺いして、この説を検証していきたいと考えています。


植物の生長の姿は、らせんに満ちている。



〈らせん流RUN〉は、“快”を求めることから生まれた

―――では、〈らせん流RUN〉が生まれる背景について伺います。

プロフィールのところとダブるので、簡単にお話すると、わたしは、小さいことから走ることが大好きでした。

そして、20代の後半から、フルマラソンでの自己ベストの更新を目指すようになったのですが、あるところから、からだが発する違和感を軽視したまま走りすぎて、からだを壊し、34歳の頃から、走れないどころか、歩くことも不自然になってしまったんです。


―――走ることが大好きだっただけに、それはつらかったでしょうね。

とてもつらかったです。
でも、走ることが大好きだったからこそ、もう速さはどうでもいいから、もう一度、気持ちよく走りたい、そして、出来るなら生涯走りつづけられる走り方を見つけたい、という強い思いも、起きたのだと思います。

そして、そんな方法があるならば、それは多くのランナーに役立つはず。

それを見つけて、伝えること、それはランニングライターとしての使命では、と思ってきました。


―――どのような取り組みをしてきたのでしょうか?

まず、最初に気づいたのは、からだを壊した原因は、自然の理に適っていないからだの使い方で走りすぎたことだということです。


―――実際どんなトレーニングを?

スタミナが足りなければ、走る距離を増やす。筋力が足りなければ、ウエイトトレーニングをする。
というように、自分に足りないものを次々に足していく、というもので、からだのバランスの崩れも、からだ全体の使い方を見直すのではなくて、インソールやシューズで矯正して走り続けていました。


―――今も、多くのランナーがそのようなことをしているのではないでしょうか?

程度の違いはあるかもしれませんが、そうだと思います。

フォームについては、今は、元実業団選手や指導者が、市民ランナーをコーチしたりしているし、走り方の説もいろいろ説かれるようになり、わたしが競技者として走っていた頃より、数段、よくなっているとは思います。

でも、故障者は絶えない。故障と共存しながら走っている市民ランナーが、わたしのようにいつか走れなくなったりしないか、案じています。


―――たとえば、腰痛は、直立二足歩行をしてしまった人類の宿命、という医学者もいますが、ランニングに故障はつきものではないのでしょうか?

わたしもはじめはそう思っていました。しかし、ある時から、「イヤ、待てよ」と。

直立二足歩行することが人類であるならば、歩くことで、からだを壊すのはおかしい。そんな酷なことを、人類を創ったおおいなるものが、するわけがない。

本来、歩くことで快適になるように人類は創られているのに、そのプログラムどおりに動かないから、壊れてしまうだけでは、と思い直したのです。


―――確かに…。

さらには、大自然の一部である地球の上で、自然の一部である人間は、歩く、走るという基本の動きそのものによって、からだを壊すどころか、日々をより楽しく気持ちよいものにできるんじゃないかという、大それたことまで、思いついてしまったわけです。


―――それができたら、最高ですね。

そんな夢のようなことを思い、その方法を求めているときに、出会ったのが、野口三千三先生と橋本敬三先生と高岡英夫先生(プロフィールのSpecial Thanks参照)の身体論の中にあった、原始的な動物の感覚は、“快”か“不快”かしかなく、“快”を選んできたものが生き残っている。

人類を創ったおおいなるものは、自然の理に沿った動きをすれば、“快”というご褒美をくれるようにできているはずだという説でした。深く腑に落ちました。


―――いわれてみれば、納得します。

生物として考えれば、とても当たり前のことなのに、それまでのわたしは、ざっくりいえば、不快なのは、自分に何かが足りないからで、それを鍛錬によって身につけることで、快が得られると思っていたのです。
ですから、この説には、目からウロコがボロボロ落ちました。

そして、自分の“快”をナビにすれば、自然の理に近づけるはずと、と確信したのです。


―――そこから、〈らせん流RUN〉のキャッチフレーズにある、「自分の“快”をナビに」が生まれたのですね。

そのとおりです。
そこから、自分にとって“快”と感じる動きをして、 それが、また、より一層の“快”をもたらす動きになったら、「とりあえず、正解!」と判断しながら試行錯誤を続け、既存の様々な方法をアレンジもしながら、無理のない動きによって溜め込んできたからだの歪み、コリ、滞りを取る工夫をしてきました。


―――その方法が、ワークショップで行うものですか?

はい。自分が取り組み続ける中で、淘汰して残ったものを、それをすること自体がより楽にでき、より気持ちよくなる方向に進化させてご紹介しています。


――たとえば?

健康雑誌などでもよく取り上げられている昔から伝わる簡単な健康法である「指もみ」も、より楽にできるように工夫していったら、それだけで全身がほぐれて、気の流れがよくなり、力みの少ない立ち方、歩き方になったので、ただの「指もみ」ではなく、「全身快通らせん流指さすり」とネーミングしてお伝えし、好評です。



〈らせん流RUN〉は天地につながる安らぎや自己肯定感を生む

―――そこから、〈らせん流RUN〉へ、どうつながるんでしょうか?

からだの手入れをして、少しずつからだの“快”に従う力がついてきたところで、「前に進むには、どうしたらいい?」と、からだに聴いてみたら、からだの奥がどこからともなく動きはじめ、それにただ委ねていったら、まったくの努力感なしに、 からだの中でも、外とも軋轢がほとんどなく、なめらかに転がるように、軽やかに、ゆっくりと進んでいったのです。

そして、その動きを観察していくと、下から上に、背骨に沿って、らせん状のなにかが立ち上がり、頭上に抜けていきました。

それに身を任せていくと、これを、「天にも昇る気持ちよさっていうのかな?」と思うくらいの“快”がからだの中心を駆け抜けていったのです。


―――天にも昇る気持ちよさ? 聞いただけでも、ぞくっとします。

自分もぞくっとしました。

そのこの気持ちよさは、マラソンで苦しさを乗り越えて完走、あるいは、自己記録を更新した時の達成感、自分が歩く、走ると決めた距離や時間をクリアしたときの満足感、歩いたり、走ったりして、汗をかいたときの爽快感、景色と空気のいい自然の中を走ったり、歩いたりするときの清々しさとは、異質、異次元のものです。崇高度が違うというか・・・。

この世界を知ったら、数字をクリアすることによるモチベーションは、必要なくなってきました。


―――もう少し詳しく教えてください。

足裏から湧き上がる気持ちよさが、背骨に沿って立ち上り、天に届き、それがまた舞い降りてくる。

それに包まれて、「うわッ、なに、なに、この気持ちよさは?」と驚いていると、胸の奥、背骨の前あたりに、やわらかな“芯”のようなものが現れ、自分の存在は、その芯のようなものだけになったような感じで、自分の内側と外界が溶けあい、広がり、ひとつになりながら、前に進んでいくのです。


――やわらかな“芯”のようなもの?

その正体は、エネルギーとか気とか、表現されるものかのかもしれません。

それが、天地としっかりつながっている。

その確かさからか、言葉にできるような根拠はなにもないのに、自分は自分のままで大丈夫だという、安らかな自己肯定感を感じたときは、期せずして涙がこぼれました。

これが、今のところ、わたし自身のRUNの気持ちよさ自己ベストです。


―――いわゆる、“ゾーン”といわれる状態でしょうか?

がんばっている感がないという点では似ているかもしれませんが、スピードが速いわけでなないし、その時の記憶はしっかりあるし、再現性もあるので、それとは違う感じです。

ベトナムの高僧、テイク・ナット・ハンが唱える「ウォーキングメディテ―ション」の世界にも、似ているかなと思ったこともありますが、これも本で読んだだけなので、確かなことは言えません。

一番近いなと感じているのが、わたしが続けている“ただ坐る”気功の静功という修練のときに感じる、内と外の境がなくなり、芯の部分に何かが流れていて、そこにいることだけで満たされていく幸福感でしょうか…。


―――走る、歩くことが、気功のようなものになっているんですね。

そうともいえます。

さらに、驚いたのが、そのようなRUNをしたあと、帰宅して家事をしているときも、その気持ちよさがしばらく続いているのを感じたときです。

もし、このような歩きをいつでもどこでもできるようになったら、歩きさえすれば、幸福感を感じられるかもしれないと、またまた、大それたことを考えたのです。


―――やはり、人は歩くことでしあわせを感じるようにできている?

まだ、わかりません。

ただ、わたし自身は、らせんの流れに身を任せて進む気持ちよさに気づく前は、走っているときは、空中に浮いて弾む感じが気持ちいいと思っていましたが、その要素がない歩きは、まどろっこしいいだけ。その動き自体に気持ちよさを感じたことはありませんでした。

ところが、まだまだ、あちこち歪みや滞りがあり、日常の不用意な雑な動きで、さらなる歪みを生んだりしていますが、意識すれば、いつでもその状態にある程度なれるようになったのです。

長年、わたしの歩きと走りの探究の最前線をお伝えしてきた10歳代から80歳代の教室で試してみたところ、ほぼ全員が、程度の差はあるものの、1回のご指導で、

「なに? コレ! 楽!気持ちいい! これまでの歩きは、なんだったの?」 と笑顔になったのです。

さらに、それを続けてくださっている何人もの方から、歩かなければではなく、気持ちいいから歩くようになった。

歩くことでからだが調い、こころが軽くなるとお聞きするようになってから、この動きが、からだとこころから引きだす可能性に大きな希望を感じたのです。


―――健康のために歩かなくてはと言って、歩くことで、からだを壊している方は大勢いますが、それとは逆なんですね。

そうなんです。からだのことは、わからないことだらけで、これが絶対だ!という方法論なり、理論はないと思っていますので、これはあくまで一仮説ですが、

からだの“快”に従って、歪みを取り、滞りを流していけばいくほど、誰でも人は気持ちよく楽に歩き、走れるはず。

そうして、日常の一歩一歩が気持ちよいものになれば、からだもこころも軽やかになり、穏やかな笑顔が増えてくる、そんな可能性をもっているのが、人間では?と考えているのです。

先ほども申し上げましたが、今後は、多方面の専門家の方たちのご意見を伺って、それを求めている方たちのお役に立てるように、検証できるところはしていきたいと思っています。


〈らせん流タオRUNNING倶楽部〉を立ち上げた思い

―――そのために立ち上げたのが〈らせん流タオRUNNING倶楽部〉なのですか?

はい。そもそもに還る楽しさを、それを望む人たちと分かち合いながら、ともに進んでいけたらと。それができるからだをもって生まれたことを歓び合い、それを慈しんでいく仲間とともに歩き、走りたいんです。

そうすることが、互いの存在そのものを敬い合える関係につながっていくんじゃないか、なんて大きな夢をまたまた描いて、〈らせん流タオRUNNING倶楽部〉を立ち上げました。


――「タオ」に込めた思いは?

タオについても、本で学んだだけですが、とても惹かれていて。

そのようなRUNをしているときに、ふと浮かんだ言葉が、「無為自然」だったことから、大胆にも「タオ」を入れてみました。

それと、「上善如水」も関係しています。


上善如水
水の流れも、らせん…。RUNの大先生だ。


――上善如水?

わたしたちのからだの7割近くは水分ですから、いずれは、流れる水のようにRUNできたらなあと夢見ているのです。


――それは、興味深い! では、最後に、読者の方にメッセージを。

〈らせん流RUN〉は、生まれたて、ホヤホヤですが、ここでは「~しなければならない」はありません。

自分のからだとこころの「~したい」に従って動くことをベースにします。

この動きがもたらす気持ちよさは、無限のように感じています。

それだけ、わたしたちのからだの可能性は奥が深いのです。

その探究を楽しみ、 自分ってすごい、あなたもスゴイ! そう讃えあいながら、日々を送るお仲間、お待ちしています。

わたしがたどり着いたところまでは、わかりやすくナビゲートいたします。



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