らせん流タオRUNNING倶楽部 小松美冬のハチャメチャ半生記 | らせん流®タオRUNNING倶楽部

日常の一歩一歩の気持ちよさ自己ベストを目指す

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ランニングセラピスト®小松美冬主宰 東京・国分寺を中心に教室を開催中

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美冬‘s ハチャメチャ半生記
~走ることが大好きだったからこそ、今がある。~

ケガの絶えないお転婆娘が、陸上やテニスに打ち込むが…



たぶん、まだ2歳になっていない頃。とにかく動くのが好きだった。チャレンジングな性格は、この頃からかも。これを危ないと制すどころか、写真を撮っていた母に感謝。

1960年、真冬の澄み渡った青空の朝に生まれる。 両親によると、10か月で歩くより前に走り出したとか。 広いところに出れば走り出す、高いところがあれば、よじ登る。 ケガの絶えないお転婆を絵に描いたような子どもだった。

4歳で迎えた1964年東京五輪の記憶が鮮明にあり、 特にマラソンのアベベ・ビキラ選手に魅せられ、 この頃から、自分にとってマラソンが、 どこか特別の存在になっていたような気がする。

中学では陸上部へ。走ることは好きだったが、 トラックで速さを競うことに、あまり興味がわかず、さぼってばかりだった。

高校からは、漫画『エースをねらえ』の影響で 硬式テニスを始め、のめり込む一方、 運動部における根性主義に疑問を持ち、 もっと科学的な発想が必要では、と思う。

自身は練習では強いのに 試合ではビビって力が出せず。 その原因を探る中で『インナーゲーム』 (詳しくはプロフィールの〈スペシャルサンクス〉へ)に出会い、 心と体の関係に興味を持つ。 スポーツのトレーニングは 東洋思想と西洋科学が両輪になるとよいのでは、と おぼろげながらに思う。





たぶん、まだ2歳になっていない頃。とにかく動くのが好きだった。チャレンジングな性格は、この頃からかも。これを危ないと制すどころか、写真を撮っていた母に感謝。

心理学の専攻、洋菓子作り、宝飾品販売の経験から学んだこと…



テニスに明け暮れた高校時代。試合で力が発揮できないメンタルの弱さを克服したいと、『インナーゲーム』理論を学んだことからスポーツ心理に興味を持つ。

その経験から、 大学はスポーツ心理を学ぼうと心理学科へ。 入学と同時に体育会のテニス部に入るが、 いわゆる典型的な体育会系の雰囲気に馴染めず、半年で退部する。 さらに、心理学の基礎の勉強にも熱が入らず。 一時期、いわゆる、モラトリアム状態になる。

ところが、すぐに持前のエネルギーがうごめきはじめ、 まもなく、民間のテニスクラブでテニスに打ち込む一方、 中学生頃から好きだった洋菓子作りに夢中になり、 洋菓子教室通いや洋菓子店でのアルバイトに明け暮れ、 卒業後は、今でいうパティシエになるつもりで、学業はいい加減のままだった。

それでも卒論だけは初志を貫き、 スポーツ心理の第一人者のいらした日体大大学院に通いながら 「運動学習と教示」のタイトルで、 『インナーゲーム』理論をテニスコートで実験。 「~をしろ」という教示より、 「今自分の体がどうなっているかを感じて」の教示の方が、 パフォーマンスがよいことを実証する。 この経験が、 〈らせん流RUN〉の原点になっている。



大学卒業後、パティシエになるのは、 OLを経験して、広く社会を見てからと思い直し、 真珠の「ミキモト」に入社。 編集に興味があったので広報部を希望したものの、 内弁慶ゆえ、最も苦手だと思い込んでいた デパートの店頭販売の部署に配属され、 目の前が真っ暗。

ところが、すぐに「あれっ?!」というくらい慣れ、内弁慶返上。 お客様に、宝飾品を贈る、身に着けることで生まれる 「夢」も伝えて販売する楽しさを知る。

一方、半年もしないうちに、 窓がない、空が見えない デパートの宝飾品売場の閉そく感が アウトドアタイプの私には、生理的に辛くなる。

転職を考えるも、知人の紹介もあって入社した手前、 1年もしないで辞めることは、してはいけない、 プライベートの時間で自分らしいことをすれば、 もう少し持つかもしれないと考え直す。





テニスに明け暮れた高校時代。試合で力が発揮できないメンタルの弱さを克服したいと、『インナーゲーム』理論を学んだことからスポーツ心理に興味を持つ。

フルマラソン完走を機に、「ランナー+ライター」としてキャリアをスタート



「マラソンを走ったら、その先自分のしたいことがなんでもできるような気がするの」 この映画の台詞が、マラソン挑戦のきっかけ。初マラソンで、この台詞の意味を体感する。

その時、ふと思い出したのが、 大学時代に観た映画「マイライフ」のヒロインの台詞

「フルマラソンを完走したら、 その先自分のしたいことが なんでもできるような気がするの」

だった。

そこで、「そうだ、フルマラソンを走ろう!」 と思い立ち、 4か月先のフルマラソンを目指して、 2キロのジョギングからを開始。 もともと走るのが好きだったし、 適性もあったのかもしれない。 少しずつ距離を伸ばして、 初マラソンを3時間41分で完走した。

そして、 「そうか、本当にしたいことなら、コツコツ続けられる。 だから、できないことはない。 映画の台詞の意味はそういうことだったのか」とガッテン。

「思い続けられる夢は実現する」。

これが初マラソンから得た宝となった。

そこで自分が本当にしたいことを自問し、 スポーツの楽しさを伝えるライターになりたいと思い、 取材とライティングの術を身に着けるために、 23歳で、編集プロダクションへ転職。 そこが下請けをしていた旅の雑誌、 『るるぶ』と『マイパスポート』の特派記者として 2年半、修業する。

その間も、取材の旅先でロケハンを兼ねて走りまわり、 事務所にいるときは取引先に原稿を届ける飛脚として、 渋谷、原宿、銀座など都内を駆け回る。

といっても、ランニング三昧の生活ではなく、 冬はクロスカントリースキー、 春から夏はカヌーや登山も楽しみ、 ランニングのレースは1年に1回、 その年の自分の発表会のつもりでフルマラソンに出るだけ。 それでも少しずつ記録が伸び、 85年、世界で初の女性だけのマラソン大会として憧れだった 東京国際女子マラソンに出場。3時間2分で完走した。 その夜、「小松美冬」の文字が光を浴びて浮き上がる夢を見た。 これはライターとして独立せよ、の合図かな勝手に判断し、 「ランナー+ライター」の肩書でフリーランスになった。 25歳の時だった。

そこから、 東京国際女子マラソンでの記録更新を目指して走りながら、 『ランナーズ』、『シティランナー』、『クリール』、 『ターザン』、『ブルータス』、『陸上競技マガジン』などの専門誌、 『アエラ』、『週刊朝日』などの一般誌に、 スポーツ科学を一般向けにした記事、 国内外のトップランナー、指導者などへのインタビュー記事などを寄稿してきた。





「マラソンを走ったら、その先自分のしたいことがなんでもできるような気がするの」 この映画の台詞が、マラソン挑戦のきっかけ。初マラソンで、この台詞の意味を体感する。

自転車事故、ニュージーランド遊学、リディアードとの出会い…



28歳から1年間、ニュージーランドにランニング遊学。地球の肌ざわりを足の裏で感じ、世界的なランニングコーチ、リディアードの指導も受け、幸せ一杯だったが…。

2回目となった‘86東京国際女子マラソンで自己記録を2時間52分まで伸ばし、 ‘87東京国際女子マラソンの招待選手に。 そこに向けて練習に励んでいたとき、 気分転換で乗ったロードレーサーで転倒。 1日半意識不明で、 目が覚めたときは病院のベッドの上だった。 幸い脳には異状なかったが、 首のむち打ちやら、肋骨のヒビやら、あちこちの打撲やらで、 1週間の入院となった。

意識が戻った直後から、 3か月後のレースのことが気になり、 入院後半、看護婦さんの目を盗んで、 リハビリ室や階段でこっそりトレーニング開始。

体の歪みがすべての不調の原因ということを学んだ今の私なら、 あれほど強打したのだから、 体の骨格も相当歪んだはず。 それを正さずにトレーニングを再開しちゃまずいでしょ、 とわかる。 だが、当時はそんな知識も知恵もなく、 そのために、 走りのリズムが少しずつ狂いはじめていたことにも 気づかなかった。 それでも、 ‘87東京国際女子マラソンで自己記録を更新し 国内8位入賞。 ゴール後、天を見上げ、 無事走りきれたことに、感謝したことをよく憶えている。

その翌年、28歳のとき、 ワーキングホリデービザを持って ニュージーランドに1年間、ランニング遊学へ。

ニュージーランドを渡航先に選んだのは、 ニュージーランドは人が思わず走りたくなる自然だらけで、 そこからジョギングが生まれたこと、 今世界で行われている 中・長距離のトレーニングの基礎を築いたニュージーランド人、 アーサー・リディアード(詳しくはプロフィールの〈スペシャルサンクス〉へ)に 会えるかもしれないという理由だった。

ニュージーランドで、 たまたま入ったランニングクラブのコーチが 幸運なことに、リディアードの愛弟子だった。 その縁で、ニュージーランドに渡航して半年後に、 リディアードの講演に参加。 その席で リディアードの最新刊「ランニング・ウィズ・リディアード」の邦訳の許可を得る。 今、ありがたくも「まさにランナーのバイブル」の評をいただき、 ロングセラーとなっている『リディアードのランニングバイブル』は、 こうして生まれた。

それだけでなく、 その後、自身のトレーニングの指導を直接に受け、 ニュージーランド滞在の最後に走ったマラソンで 2時間46分の自己記録を達成。 ゴールの先で待っていてくれたリディアードの胸に飛び込んだのは、 忘れ得ぬ思い出だ。





28歳から1年間、ニュージーランドにランニング遊学。地球の肌ざわりを足の裏で感じ、世界的なランニングコーチ、リディアードの指導も受け、幸せ一杯だったが…。

走れない日々、マラソン解説、結婚出産、新たな学び…



体を壊して、自分の脚でマラソンを走れなくなってからは解説者として中継車で走る。バルセロナ五輪の女子マラソンもラジオで解説。ランナーの動きを見る目の確かさも買われた。

帰国後、ニュージーランドで学んだことを生かして、 さらに練習量を増やして記録更新を狙うも、 走りだして10キロすぎると、 痛みもないのに、右脚に力が通らなくなる症状に見舞われる。

左脚で進むも右脚に力が入らないことから、 走りは、かっくん、かっくんとアンバランスになるため、 勝手に「かっくん病」と名づける。

のちにこの症状で走れなくなり、 引退していく選手が複数いるのを見聞きするようになったとき、 これも、結構パイオニア的経験だったのかと思う。

仕事でおつきあいのあった 日本トップのクラスのスポーツ整形外科、治療師の先生方に 「かっくん病」を診てもらったが、 原因がわからなかった。

ごまかしながら走りつづけるも、 ついに91年東京国際女子マラソンを 制限時間内に走りきるめどが立たなくなり、 欠場せざるを得なくなった。

そこで、またまたご縁に恵まれ、 「走らないなら、やってみない?」と 同大会のラジオ中継の解説の話をいただく。

それまでのマラソン解説は、 元有名選手か指導者か大学教授かだったから この話に戸惑うが、 自分の取材力を活かして、 選手の人となり、スタートに至るまでのドラマを調べ、 それも伝えることで、 ランナーとマラソンの魅力を伝えられればと、引き受ける。

スタートに至るまでの人間ドラマを伝えた解説が新鮮で好評。 超幸運なことに、 翌年、92年のバルセロナ五輪の女子マラソンラジオ解説もさせていただくことに。 以来、東京国際女子マラソンから その後継となる横浜国際女子マラソンのラジオ解説を 2014年まで続け、横浜国際女子マラソンの終了をもって、 解説はひとます自主卒業。

解説の経験を通して、 自分がどれほどランニングが好きか、 ただ前に向かって進みつづけるランナーという生き方が好きかを 毎年、確認させてもらっていた。

解説の仕事で得たものは、もう一つ。 バルセロナ五輪で出会ったスポーツアナウンサーで 市民ランナーの夫だ。 93年に結婚し、翌年長男を出産した。

妊娠中も走らずにおれず、 「かっくん病」をだましだまし走るが、 出産後、症状は悪化。

そこから、もう速さなんてどうでもいい、 もう一度気持ちよく走りたいという一念で、 「かっくん病」を治そうと再び、方々を訪ねるが、 埒が明かず。

途方に暮れていたとき、 ある治療院で高岡英夫先生(詳しくはプロフィールの〈スペシャルサンクス〉)へ)の 『意識のかたち』に出会い、 そこに書かれていることを、試してみたら、 一時的に、だったが、「かっくん病」に悩まされずに、 20キロをほぼ自己ベストで走ってしまうという 奇跡のようなことが起きた。

そこで、これで治るかも、と歓び勇んで、 その奇跡的ランから帰宅してすぐに、 高岡英夫先生に電話をかけ、指導を乞う。

以来15年以上、高岡先生の下、 ゆる体操、身体意識、気功、呼吸法、身体調整法などを学び、 高岡先生の書籍等の執筆にかかわり、 頭と体で体のすばらしさを学びながら、体の感覚を磨き、 「かっくん病」も根本から改善する兆しが見えてきていた。

さらに、35歳の時に発症した「甲状腺機能低下症」も、 投薬なしに、少しずつ改善してきた。

その一方、ゆる体操、ゆるウオーク指導員として 都内数か所で教室も開催。 書くだけでなく、 顔を合わせて相互交流をしながら、 伝えたいことをお伝えする楽しさを知る。




体を壊して、自分の脚でマラソンを走れなくなってからは解説者として中継車で走る。バルセロナ五輪の女子マラソンもラジオで解説。ランナーの動きを見る目の確かさも買われた。

そして、現在。今、みつめているもの



足の裏で大地の感触を味わい、自然に紛れながら、体が動きたいように歩いたり走ったりするのを楽しむ今。いつか、水のように流れる動き、全身がひとつながりになった天衣無縫な動きをしてみたい。夢はでっかく根は深く…

ところが、53歳のとき、 人がみつけた既成の体の動かし方で、 自分を規制するのは苦しい。 もっと、自由に動きたい!という 体の奥底から湧き上がる声に突き動かされ、 高岡先生の下から卒業する。

そこから、ランニングライターに ランニングセラピスト®の肩書も加え、 自分の体と心の声を主役に、 その時々でピンとくるものを学び、消化し、ろ過したものを、 自分にとっての”快“をナビに進化させつづけ、

57歳のとき、〈らせん流®RUN〉を打ち出し、 〈らせん流タオRUNNING倶楽部〉を立ち上げる。

自身も〈らせん流RUN〉に磨きをかけながら、 多くの人に伝える中で、 この動きが、 人間の体と心にもたらす“快”にゴールがないこと、 さらに、それが引き出す人間の可能性にも限界がないことを感じる。

そして、 それをひとりひとりが実感することで、 すべての存在に感謝と敬意を感じながら日々を送れるのでは、

だからこそ、 そんなことを分かち合える仲間とともに前に進みながら、 ともに、命を輝かせたい・・・

と強く思う。

それを想うとき、 ワクワクが止まらない。

走ることが大好きだからこそ、 「かっくん病」で走れない日々があったからこそ、 今がある。

ここまでの全ての経験で得た一番の学び…、 それは、 自然とその一部である自分の存在に対する 畏敬の思いが、すべてのベースになくてはならない ということである。

それを体現しながら、伝えていく・・・、

それを、ライフワークをしたいと、 今、感じている。



足の裏で大地の感触を味わい、自然に紛れながら、体が動きたいように歩いたり走ったりするのを楽しむ今。いつか、水のように流れる動き、全身がひとつながりになった天衣無縫な動きをしてみたい。夢はでっかく根は深く…


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