
らせん流ウォーク(正確にはらせん流RUN。このあたりの話は↓)の動きに、はじめて出会った時のことは、今しがたのことのように体が鮮烈に覚えています。というか、その時以来、その感覚とともに生きています。
https://rasenmail.com/Lb262/12011
その感覚とは、一歩ごとに天から地へ、地から天へ、背骨に沿って清澄で柔らかなエネルギーがらせん状に流れ下り、流れ上る心地よさです。
そして、それに委ねて動いていくうちに、自分の内外の境が溶け、周囲の自然とひとつになった安らぎです。
そのエネルギーは、「タオ」からものではないかと感じました。
タオとは「老子」が説いた、すべての命が生み出さている根源のこと。そこは天地、陰陽が生まれる以前の世界で、仏教でいえば「空」に当たるのでしょうか?
その後、意識すれば一歩ごとにらせん状のエネルギーの流れが起きるようになってから、そのエネルギーが流れているところに、もう一人の自分がいると感じるようになりました。その自分は天地と繋がり、粛々と安らいでいるのです。
それに対し、仕事のことだの、家族のことだの、ああだら、こうだら、毎日、いろいろな感情とともに悩み、右往左往、凸凹している自分もいます。
ある時、前者が「真我」、後者が「自我」ではないかと思うようになりました。
言い方を変えると、前者が本来の自分、後者が人間社会と対応する自分です。
その「真我」と「自我」の在りようを、自分なりに観察していて見えてきていたことが、立春の日に詩のような言葉になって立ち上がってきました。
ちょっと恥ずかしいけれど、自分のためにも書きますね。
*
「真我は、大地に根ざす足から伸び、背骨を通り天に通じていて
自我は、頭から下に伸びていて、体の前面に張りついている。
真我は、背骨と大腰筋に支えられていて
自我は、アウターマッスルの力みに支えられている。
真我は、間脳あたりを貫き刺激し、感覚を磨き、
自我は、大脳前頭前野を刺激し、思考を元気にする。
真我は、上に進みたがり、
自我は、前に行きたがる。
自我は、前のめりになりやすく、
真我は、落ち着いて、ココイマにいつもいる。
このところの私は、真我と自我、2人の自分の間を行ったり来たり。
真我と自我が並走状態で過ごしていて、一日の終わりに、真我に還り、自我を「ご苦労さま」と癒して眠りにつく。
そして、願うのだ。
自我が真我と並走するのでなく、真我に手を引かれて進むようになったら、もっと静かで穏やかだろうに、と。
そのためにどうする?
『あなたには、らせん流ウォークがあるじゃないか。
あれは、そこに向かうための手段であり、行動だぞ』
と真我が諭してくる」
*
禅僧の筋田一照さんが何年か前に、
「親鸞が念仏で、禅が座禅で向かおうとしていることに、小松さんは歩くことで向かおうとしているのでは?」
と言ってくださいました。
念仏を唱えたこともないし、座禅に真剣に取り組んだこともありません。
だから、体感ではなんとも言えないけれど、方向性は似ているような気がしています。
一方、念仏や座禅では直接には起きないことが、らせん流では起きています。
むしろ、まずはそちらを求めてくる方が多いんですね。
何かというと、スタイルやボディラインがよくなったり、コリや歪みが減って痛みが和らいだり、尿漏れが改善したり、そして何より歩くのがラクになる!
これって、お得じゃないですか?
さて、最後の文は、自我からのものか、真我からのものか?
ご判断はお任せします(笑)

