長文です。
今の経済の主流の在り方って、
なんかツライよね、と感じられている方
(まあ、ほとんどの方だよね。たぶん)
大量生産、大量消費に「?」を感じる方に
お読みいただければうれしいです。
*
私の住む街に好きなカフェがある。
「クルミドコーヒー」
この店の存在を、私はらせん流の生徒さんから教わった。
その方は、この店から1時間半くらい遠い町に住んでいる。
なのに、国分寺で個人セッションを、となったときに、
私が「駅前の大手の店でいい?」と聞いたら
「いや。この店がいい」と言って、教えてくれた。
心地いい空気が流れ、ほっとするカフェ。
知る人ぞ知る、ある意味有名なカフェだった。
*
そのオーナー、影山知明さんが書いた本が、
これからの私の、
そして、らせん流の行く道の
一つのガイドブックになりはじめた。
『ゆっくりいそげ~カフェからはじまる人を手段化しない経済』(大和書房)
読むと、このカフェの居心地の良さのわけがわかる。
取ることではなく、贈ることからはじまる関係性。
不特定多数でなく、特定多数をめざす経営……。
経営、経済のことは門外漢もいいところだから、
下手なコメントは控えるけれど、
超ド素人的な感想を言えば、
読んでいて、
そうなったら
ヒトはもっとゴキゲンに働き、
働くこととごキゲンに生きることが繋がるよな、
自分の町に愛着が生まれるよな、って、思えてくる。
このカフェは、それが絵空事でないことを、
示してくれている。
*
この会社は、出版も手掛けている。
今、「らせん流RUN」の世界をひとりでも多くの方にお伝えして、
実践していただきたい。
それによって
歩くことでごキゲンになっていく人が街にあふれたら楽しいだろうな、
という絵空事のような思いから、
本という形でも、この楽しい世界を伝えたい、
そんな思いを持ち続けている。
自分が伝えたい、実現したい世界のために、
どのような本の作り方があり得るのか、
あれこれ悩んでいる。
*
そんな時に、この本の中の一文が光って見えた。
「本は、本そのものに体験が閉じるものではない。
本を読み、本を受けて、本をきっかけとして、
本とともにある時間のすべてが本体験の一部になる。
そして、それをシェアするような機会がさらにあれば、
他者の経験までが自分の経験の一部になる。(中略)、
そう、本は時間を味わうメディアなのだ。(中略)
存在を傾けた、手ひまのかかった仕事をちゃんとすること。
そして、その仕事を受け取ってくださった方に、
時間をかけてちゃんと寄り添いつづけること。
それが「時間と戦う」のでなく、
「時間とともにある」人の働き。
そうすれば、きっと時間は味方になってくれる。
本にしても、
お店にしても、
他のあらゆる人の仕事にしても。
特に「モノ」は物質的に時間の経過ともに劣化する。
だが、それ以上に、
その仕事をきっかけとした縁が生まれ、
体験が積み重なり、
それが記憶となり、
やがて愛着とまでなって膨らんでいくとすると、
その仕事は時間とともに「劣化」するどころか、
育っていくことになる。
(中略)
そう考えると、今という時代は不幸だ。
本来それが、傑作となっておかしくないクオリティの仕事だったとしても、
世の中がコンビニ化することで、
作品として育っていく時間を待ってはもらえず、
受け手とのコール&レスポンスに価値がおかれないこの時代においては、
人々の心に愛着の育ちようがない。
そうして人の仕事は、次から次へ消費されていく。」
(『ゆっくり、いそげ』P227から228より引用)
*
自分の体験も交えて訳した
『リディアードのランニングバイブル』(大修館書店)が、
25年以上に亘り、毎年少しずつ増刷を続けて、
今、「まさにランナーのバイブル」という声もいただいている。
走る世界の現場でその読者に直に出逢え、
この本からの体験、感想、意見をいただいてきたから、
本でつながる世界の豊かさの意味がよくわかる。
今、その読者が、あの本の訳者の小松さんが辿り着いた世界なら、
なにかありそうって、
「らせん流RUN」の教室にいらしてくださることもある。
*
「走ること大好き」を一筋に生きてきた私ならではの、
地に足のついた本の作り、
そこからも始まるらせん流の草の根的広がり。
そんなイメージを抱きながら、
また、一歩、一歩・・・。
ゆっくり、
そして、少しはいそいで(笑)